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与次郎稲荷神社の石鳥居

与次郎稲荷神社の石鳥居 与次郎稲荷神社の境内にある、石造りの鳥居は、最上三鳥居の一つに数えられています。通称「六田の石鳥居」と呼ばれ、太くて重厚な石柱は、推定では室町時代以前の建立とされています。 むかしから「六田の石鳥居」として人々に親しまれてきたもので、山形市鳥居が丘の「小立の鳥居」、天童市高擶の「荒谷原の鳥居」とともに、最上三鳥居の一つとして有名である。当初、この鳥居は、この近くを東西にはしっている道路上にあったものであるが、のちに向きを変えて現在地に移転建立されたといわれている。現在は、與次郎稲荷神社(市内、四ッ家地区)の正面に位置しているが、当稲荷神社の縁起は江戸時代(慶長年間)のものであり、それ以前、山岳信仰の中で、葉山か、月山を対象にした鳥居でなかったかとも考えられている。昭和41年10月5日東根市指定有形文化財。


大森山の磨崖仏

大森山の磨崖仏 大森山の南山麓に、ホイト(乞食)穴と称する洞窟あり、その東側に巨大な岩が立っている。その大岩の南面に磨崖仏が彫られ、そのほか小規模な磨崖仏がホイト穴の上部にも見られる。
 磨崖仏の彫られている大岩は、高さやく5m、幅約6,5m、厚さ約3,5m余りある。この南面に幅約5,4m、高さ約1,4m、奥行き60〜90cmの岩室を作り、4体の仏像が蓮台座に舟後光に線彫りされ、左端には、もう一体が彫れるだけの余地が残されており、明らかに未完成と見られる。おそらく、5体の石仏を彫ろうとして、全体を区割りし、4体の石仏を彫ったところで、何らかの事情により、中途で断念してしまってと思われる。
 大岩に彫られた磨崖仏は、五智如来と伝えられ、仏像の線彫りに、わずかであるが、朱色の色彩が施された形跡が見られ、完成した当時は、朱泥等による極彩色に色あざやかな仏像が浮かびあがり、盛大に開眼法要が営まれたことであろう。
 正面向かって右から、大日如来、阿悶如来、宝生如来、無量寿如来、が線彫りされ、最後に不空成就如来が線彫りされる予定だったと考えられる。作成年代は、鎌倉時代末期と伝えられるが、市内、野田地区の大森山常福寺々伝によれば、加賀の国、前田侯の家臣で前田新蔵と、その弟二人がいたが、故あって出羽の国に落ち延びて、大森山の山麓に一時、足を止め、しばらく居住し、供養のため大森山の南麓に「五智如来の像」を刻せり。と、伝えられている。いずれにしても、この地方に磨崖仏は少なく、山寺と、この大森山だけであり、きわめて貴重な石造物と言えよう。昭和62年4月1日東根市指定有形文化財。

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